東京ゴミ戦争
1960年代は高度成長に伴い「ゴミ戦争」が起こった。焼却場がある自治体がほかの自治体からのゴミの持ち込みを拒み始めた。東京都は1961年1区1焼却場の設置を目標にし、北区志茂町に1基300トン2基600トンの焼却処理を目指す北清掃工場の設置を公表した。
これに対し、北区志茂町を中心とした住民は「志茂ゴミ焼場設置反対期成同盟」を結成した。
反対理由:
- 設置場所が住宅・店舗の密集地であること。
- 敷地が狭小であること。
- 小・中学校に近接していること。
- 清掃車による交通災害が懸念される。
- ゴミを燃やせば、必ず有害ガスが発生する。等
運動は火力発電所跡地の煙突に登り留まり建設反対の意思表示をし、主婦によるハンストなど多彩な運動を展開した。
東京都はこれに対し、1962年2月北区議会の審議場に警官隊を導入してまで北区の承認を取り付け、計画を強行した。反対運動に対する切り崩しも試みられ、一自治会が脱落したが、あと九自治会の結束は最後まで揺らぐことはなかった。
これに対抗して住民らは裁判に踏み切る。当初からゴミの焼却による有害ガスの発生を抑制することが住民側の目標であった。反対運動が根強く持続された理由は、自分たち自身でゴミ焼却場の問題について科学的な関心を持ち、熱心な勉強と研究を重ね、その結果を、主婦を始めとする運動参加者に持ち込んでいったことであった。この時期に公害という言葉は声高に述べられていなかった。しかし「地元住民にとって、生命・健康への危害(の予想)に反対することは公害問題への典型的な住民行動である」とこの住民運動を北区の行政当局は見ていた。
訴訟までの経過
この公害反対裁判と運動を担い続けたのは北法律事務所と鳥生弁護士だった。鳥生弁護士は訴訟代理人であり且つ北区住民の代表であり続けた。同じ訴訟代理人に同じ北区生まれの近藤忠孝弁護士がいたが、近藤弁護士は富山のイタイイタイ病裁判に専念するために途中から鳥生弁護士が一手に引き受けることになった。

鳥生弁護士は次のような思いであった。「ゴミの焼却は産廃処理と共に全国的な住民の監視と公害防止・環境保全の運動として大きな転機を迎えている。一般ゴミも産業廃棄物の処理も共に焼却と埋め立て方式を併用していることから、今日、公害・環境汚染を都市から地方・山間部にまで対応し、日本全国にゴミ処理汚染の深刻な影響を拡げている。その影響も生活環境への汚染から、ダイオキシン類を始め多数の環境ホルモンによる癌、奇形、生殖機能の低下など人体への影響が問題となるに至り、ゴミ焼却と埋め立ては根本的な見直しと転換を迫られている。そして何よりも今までの経済性のみを理念とする安上がりの処理を、経費をかけてもゴミの減量化と再資源化を目指す新たな理念へ転換し、これを定着させる必要性を訴えるものです。」
集団訴訟と第一次協定
100名から始まった設置取り消しの集団訴訟の原告は6200余名に達したが、争点は立地(住宅密集と狭隘な土地)の違法性と排煙による大気汚染(SOx、NOx)の有害性だった。
この裁判は杉本裁判長係で進行し、同裁判長の勧告で住民側と東京都が裁判外で自主的交渉をし、この結果、鳥生弁護士が作成した協定案を元に1968年(昭和43年)8月安全操業と公害防止、地域環境保全を目指す第1次協定が締結された。
これは、わが国最初の大気汚染裁判であり、また住民と自治体との初の協定であった。
北区民、都民、日本国民が健康に、安全に、公害から身を守って生きていくための日本で初めての公害防止協定であった。
市民・住民が行政と対等の立場で自主交渉に臨むことが出来たのは、裁判所管理の和解交渉であったからであり、裁判長による当事者の「裁判外での自主交渉の勧告」を獲得したからであった。
これは全国初の成果であり、北区で生まれ育った鳥生・近藤両弁護士だからこその成果である。
この成果が形となった第1次協定を読んでほしい。ここでは各条文が殆ど「東京都は」から始まり、都が北区住民に対して約束して守るべきことを確認する構成となっている。
引用文献:今崎曉巳『北の砦』日本評論社
『北区史』「北清掃工場問題訴訟までの経過」
東京都公害研究所編『公害と東京都』