志茂の商店会の発足と発展

北区の戦後の商店街の復興

敗戦時の混乱の中で、先ず店開きをしたのが焼け跡にできた青空市場で活況を呈していました。青空市場もヤミ物質の扱いが少なくなるにつれて店舗を作り始め、区内の各所に新しい商店街が形成されてゆきました。戦後の混乱がほぼ終止符をうち、復興作業が軌道に乗りました。朝鮮戦争勃発の一年後の昭和26年9月に北区商店連合会が結成されました。

区役所でも経済課の中に商工相談所が開設されました。このような状況の中で迎えた昭和30年代は朝鮮動乱による特需ブームが終わり、経済の高度成長期を迎えた時代でありました。

この昭和30年代にはナイロン・テレビ・電気洗濯機などが各家庭に取り入れられました。

大量生産、大量販売の時代が来たのです。

区内では商店数も31年には約500店を数えるまでになりました。

志茂地域の商店会の状況

志茂地域にはかって志茂光栄会商店街、志茂東会、志茂銀座商店会、志茂七溜商店会、志茂平和通り商店街、志茂スズラン通り商店街の六つの商店会がありました。 これらの商店会の場所を地図上で示します1)

この地図の中で、志茂光栄会商店街と志茂東会とが一丁目と二丁目にまたがる商店会でした。

志茂光栄会商店街は昭和27年会員32名で、志茂東会は昭和29年4月に会員24名で発足した商店会です1)。この二つの商店会の商店会名と会員数の変遷、会長名を次に示します。

商店会名地域発足昭和40年昭和46年昭和56年昭和61年平成3年
志茂光栄会商店街志茂1丁目
志茂2丁目
昭和27年
会員32名
志茂光栄会
51名
金井徳次郎
志茂光栄会
59名
深田八郎
志茂光栄会
55名
相磯貞三
志茂光栄会商店街
59名
渡辺善四夫
同左
61名
渡辺善四夫
志茂東(あずま)会志茂1丁目
志茂2丁目
昭和29年4月
会員24名
志茂東会
26名
川上整
志茂東会
21名
川上整
志茂東会商店街
21名
川上整
同左
22名
井上勝寿
同左
21名
井上勝寿
(参考:『北区商業名鑑』)

この二つの商店街の当時の様子を『北区史 民俗編2』の写真より転載しました。

現在はこの二つの商店会は無くなってしまいましたが、この会に所属していた商店のうち、新力家そば店、土橋サイクル、総合食品くろだが頑張って営業を続けています。

新力家:谷中商店街でゆでめん屋を営業していたが、昭和8年に現在の場所で蕎麦屋を始めた。

志茂一丁目では最も古い店だと思われます。昭和30年・40年代頃は付近には資生堂研究所や大都製作所、高島株式会社、赤羽変電所などがあり、午前中に注文を取り昼に自転車で運んだ。

テレビでプロレス中継をやる時間には、店の中は満員になった。忙しかったので男女の住み込み人が店の二階に居たそうです。

土橋サイクル:熊野神社のちかくにある実家は大正13年頃震災で芝から尾久、そして現在の場所に引っ越してきて自転車屋を開業したそうです。昭和25年頃、6人兄弟の長男が志茂1丁目の現在の場所に支店を出しました。その後長男が実家を継いだ後三男の金蔵さんが支店を継ぎ現在に至っています。ご高齢ながら毎日店を開いています。私も子供の頃、この店の貸自転車で乗る練習をした覚えがあります。

総合食品くろだ:昭和15年頃には加藤乾物店と沢魚店との間に黒田八百屋がありました(このシリーズ第10回の地図参照)。戦災で焼け出されて一時店のあった向い側の2丁目に越しました。この店は八百屋と段ボール屋の共用の店でした。その後昭和50年に現在の場所に店舗を移転しました。現在は一丁目で唯一の個人の総合食品店として頑張っておられます。

引用文献 1)『北区史 民俗編2』 平成六年三月刊、東京都北区

参考文献 『北区商業名鑑』

     『新修北区史』昭和46年3月刊、東京都北区役所

 

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