今から108年前の1917年(大正6年)、志茂1丁目の隣の神谷に飛行場を備えた飛行機製作工場が個人の力で建設されました。建設したのは岸一太という東京の築地明石町に耳鼻咽喉科医院を開いていた医学博士です。
岸一太の経歴
岸一太(きしかずた)は、1897年(明治7)岡山県御津郡大野村(現、岡山市北区)に生まれ、1897年に岡山医学専門学校を卒業しました。同校の教授に才能を認められ金杉英五郎の耳鼻咽喉科医院を紹介され、そこに入り、その後ドイツ留学し解剖学を学びました。帰国後、1902年台湾の台北医院耳鼻咽喉科医長となり、1906年京都大学で医学博士の学位を得ました。台湾総督府民生長官の後藤新平にその才能を認められ支援を受けることになります。台湾総督府医院医長、総督府医学校教授を歴任し、後藤新平が初代南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁に就任すると、岸も満鉄理事(満鉄病院長)になりました。1909年満鉄を辞し、東京築地明石町に耳鼻咽喉科病院を開業しました。本業の傍ら、工業方面での様々な研究を行いました。岸式人造絹糸を発明し特許を取り、1914年博覧会に自作の自動車を出品するなどしました。製鉄の研究中、剱岳でモリブデンを発見し、病院の隣に「富山工業所」を作り溶鉱炉を築き、モリブデン鋼を鍛造しました。ドイツ留学中に得たモリブデン鋼が高温強度、耐摩耗性に優れているという知識から、自動車・飛行機への利用に目を付けました。
1915年東京帝国大学工学部の技師らと一緒にこのモリブデン鋼を主要部材に用い水冷式ルノーV型エンジンを摸作しました。このエンジンをモーリス・ファルマンの機体に搭載した飛行機はモリブデン鉱発見場所にちなみ「つるぎ号」と名付けました。続いて機体・エンジン共に初の国産機「第2つるぎ号」を完成させました。この「第2つるぎ号」は日本最初の民間飛行機でした。
赤羽飛行機製作所の操業
築地明石町病院の隣に作った工場から、飛行機体とエンジンの一貫生産を目指し、東京府下に敷地を物色し工場建設と飛行場の計画を進めました。岸は自身の書画骨董を売り立て資金を作り、1917年10月には帝国ホテルに後藤新平をはじめ、逓信大臣、農商務大臣、田中舘愛橘博士らを招き、医業から航空業界への転身を表明しました。同年12月に「赤羽飛行機製作所」を東京府下北豊島郡岩淵町字神谷に操業しました。大正8年発行の『工場通覧』には、工場の名称は「赤羽飛行機工場」とあります。男子60名女子3名の従業員を擁し、工場内施設には、耐火煉瓦工場、大格納庫、飛行機木工場、金工場(金具製作),鍛工場、ボイラー室、倉庫、鋳物工場、事務所、機械工場、食堂、社宅、合宿所、工場事務室・製図室、エンジン運転所などかなり大がかりな施設でした。


飛行場の広さと位置については長らく推測の域を出ませんでしたが、最近、本間孝夫が都公文書館の資料を発見し、区画整理組合資料等と合わせて検討して飛行場の範囲を確定しました。範囲はざっと東側は隅田川際赤羽体育館、下水道神谷ポンプ場から西は稲田小学校まで南は根村用水の分水が神谷を流れ隅田川にそそぐ北耕地川、北は神谷と志茂の境となっています。
風洞、電気溶鉱炉などを備え、機体の設計のみならず、国産の飛行機用エンジンの生産も行いました。モーリス・ファルマン式複葉機の改造機に、ルノーの空冷V8エンジンを手本に苦心の末国産化に成功した軽量化エンジンを搭載した岸式つるぎ号を発表しました。つるぎ号の3号から6号が赤羽飛行機製作場で製作されたと言われています。ちなみに「第3つるぎ号」は全長8.55m、全幅12.5m自重480kg、搭載量250kgでした。

『工業通覧』大正8年号には、赤羽飛行機工場の他に日本で民間の飛行機製造会社の記載はありません。
しかしながら、下北半島での砂鉄採掘経営の失敗や中島飛行機などの大資本の台頭などによる資金繰り悪化のため、「赤羽飛行機製作所」は大正10年(1921)3月に突如閉鎖され岸は航空業界を去ることになりました。
僅か4年に満たないこの場所での操業でしたが、民間航空史の中では輝かしい足跡を残しました。
その後すぐに赤羽飛行機製作所の敷地の一部に赤羽発電所が建設されました。
出典:
*1 北区飛鳥山博物館 所蔵
引用資料:
1) ja.wikipedia.org
2) 本間孝夫「赤羽飛行機製作所飛行場に関する一考察」
『北区飛鳥山博物館研究報告』第23号2021年3月
3) 北区飛鳥山博物館企画展図録『ひかうき・ぶんぶん』
4)『工場通覧』第12類船舶車輌製造業、農商務省商工局工務課編、
日本工業倶楽部出版、大正8年発行、「近代デジタルライブラリー」
5)掲載の赤羽飛行機製作所関係の写真3点 北区飛鳥山博物館所蔵