北豊島郡岩淵町の市域編入が実現した昭和7(1932)は前年の満州事変に続く五・一五事件をきっかけに軍国主義の歩みを強める分岐点ともなりました。
昭和12年に日中戦争が始まり、日本は本格的な戦時体制へと進み始めました。
昭和12年(1937)から国民精神総動員運動と翌昭和13年(1938)の国家総動員法による経済統制は市民生活の隅々まで戦時体制を行き渡らせる上で大きな役割を演じました。町内会や隣組は住民たちを戦時体制に組み込む役割を担っていきました。「銃後の戦いは先ず経済戦から」と東京府・警視庁が発行したチラシにあり、衣類・食事の節約、国債の購入、金の供出を促しました。
町内会の下部組織として隣組が出来たことは第2回に記しました。隣組は各組ごとに「隣組購入通帳」を預けられ、組長は毎月世帯数と世帯ごとの人数を確認し通帳に記入しました。購入物資は通帳に記入された世帯数に応じた量が分配されました*1。

昭和15年(1940)にまず砂糖、マッチの回数購入券による配給切符制が始まり、米、小麦粉、衣類などの生活必需品のほとんどが配給制になってゆきました。
物資の購入の際は点数相応の切符を添えることになっていて、衣料切符の場合家族の誰かが点数の多い衣料を購入すると点数が足りなくなることもありました。


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配給制度は戦後も続き、戦後の昭和21年(1946)、22年の方がひどく、隣組だけでなく学校を通じて学用品や運動靴の配給が抽選で行われることもありました。筆者も抽選で布製のランドセルが当たり、風呂敷で持っていくかっこ悪さから解放された思い出があります。
金属の供出は経済戦と同様に奨励されました鉄製品の回収は昭和14年から始まり、昭和16年(1941)8月になると武器の生産に充てる資源が不足してきたため「金属類回収令」が発令されました。宝石類などのぜいたく品はもとより、家庭や学校などから鍋、釜、置物、看板、お寺の梵鐘などまで供出されていきました。
「王子区隣組回報」という回覧板から、戦況が厳しくなっていった頃の見出しを、いくつか選んで載せました*3。
昭和17年10月1日号外:一般家庭金属類回収標語懸賞募集
昭和18年3月30日:一日戦士貯蓄励行、撃ちてし止まん銃後の貯蓄
昭和18年9月:英米撃滅郵便貯金増強運動
国債を買うのと同じ戦費に役立つから



戦時債権類*2 戦後のインフレで紙屑同然になる
王子区での出征兵士と戦死者
日中戦争が昭和12年に始まり、赤紙(召集令状)が家庭に届き、働き手の男子が次々と出征して行きました。銃後を守る妻や母親などの女性が男子に代わり隣組でも中心となって働きました。

王子区でも昭和14年に早くも5名の戦死者が出て、合同の区民葬が王子区役所で盛大に執り行われたことが新聞に載りました。その一人が志茂の陸軍歩兵伍長の柳下清さん(1-763)という方です*4。その後戦争が長引き戦死者が増えるにつれ、このような葬儀は行われなくなりました。
出典:
*1 東京北区教育委員会『北区における戦中・戦後の暮らしの変遷』
*2 江波戸昭『戦時生活と隣組回覧板』、中央公論事業出版、2001年12月刊
*3 北区史 資料編現代Ⅰ
*4 国民新聞、昭和14年12月5日:北区史資料編現代Ⅰに採録