モータリゼーションの時代に先駆けた区立赤羽自動車練習場

区立の自動車練習所 北区ではじめて新設

最近の自動車ラッシュにこたえ、北区では、かねてから自動車運営委員会を設け、都内初の区立自動車練習場の設置計画進めていたが、十四日の運営委で次のように設置計画を決めた1)

ここから先は新聞記事ではなく、最近タイミングよく刊行された、『北区の部屋だより』2025年8月第192号「・・知っていますか?赤羽にあった自動車教習所・・」から簡略記載します。さて今回は練習所ができた経緯とその後についてのお話をしていきたいと思います。

時代は高度経済成長期。所得の増加やインフラ整備が進んだことで、次第に自動車が普及していきました。こうした中で自動車事故の増加が見過ごすことの出来ない社会問題となっていき、運転技術習得の需要が高まりをみせました。そのような情勢の中で、区営の自動車練習所の設置が計画されました。

当初、練習所を建てる敷地として神谷町の学校予定地が挙げられましたが、狭いうえに立地条件が悪いことから、代替案として稲付1丁目(赤羽南1)の敷地が挙げられました。ここは高校誘致のために用意されたもので、練習所建設は本来の使用目的とは異なります。そこで、都教育庁に使用してよいか打診した結果、あくまで学校敷地として活用する方針は変えず、一時的に練習所として利用してよいことになりました。こうして、1953年に北区立赤羽自動車練習所が開業し、翌年には特別区公安委員会公認となりました。

私営や安全協会経営が多い中で、全国的に見ても区が練習所を運営するという事例は極めて稀でした。当時の区行政では「東京都二十三区の尖端を行く画期的な事業」(『北区議会史』)と認識されており、区の期待を背負った政策だったと言えるでしょう。

しかし、当時としても先駆的事業であったためか、練習場の運営は初年度から赤字続きでした。開設から4・5年を経て、ある程度自動車が普及してからわずかに黒字になりましたが、初年度の赤字をカバーするには程遠いものがありました。区としては、年数を重ねるごとに収入を増やしていく計画であったと推察されますが、このまま運営を継続したところで、今までの赤字額から挽回することは厳しかったのです。1959年(昭和34)頃から区議会で練習所経営が疑問視され始めました。区の事業は、そもそもできる限り広範囲な区民サービスをすることが原則です。これに反して、対象が限られる練習場経営は区の事業としてふさわしくないとみなされ、同時期に区庁舎・公民館建設が課題となっていたため、建設費確保のため区有財産の処分が検討されていました。

その結果、1959年練習場は東武に売却され、引き継がれました。この運営は東武鉄道に引き継がれ、1974年に閉鎖されるまで続きました。この売却費用で建設されたのが北区公会堂でした2)。赤羽自動車練習所のあった場所は現在UR都市機構の赤羽南1丁目団地になっています。

赤羽自動車練習所の概要1)について記しておきます。

▽施設 建物三棟144坪、教室、待合室倉庫兼整備工場、自動車置場

▽練習場 コース面積1500坪、クランク型、車庫型、S型コースのほか幅6m、長さ64mの直線コース

▽備付自動車 フォードおよび高級車系14台、ダットサンとオート三輪車計6台、軽自動二輪車2台

▽教習 教材は所定の構造教科書と交通法規読本により35教程で卒業とし、教習料金は大型自動車一教程500円、小型300円で、一教程は実施30分、学科20分とする。

▽入所資格 区民だけでなく一般都民も入所でき、大型は18歳以上、小型は16歳以上とし申込金は無料。

▽減免規定 帰還者や遺家族などには規定を設けて授業料を減免するが、これは区民に限る。

▽特典など 練習所の試験に合格した者には仮運転免許証を交付し、二、三か月後には都公安委からの正式認可を期待しているので、警視庁試験は、実地、学科とも無試験でパスさせるようにする方針だという。

この練習所の概要をみますと、戦後間もない時代であることが反映されています。

まず、使われる自動車がアメリカ車であったこと。減免規定として帰還者や遺家族への配慮など。

北区が、率先してモータリゼーションの時代を見据え、自動車練習所運営したことを素晴らしいことだったと評価したいと思います。

参考文献 1.朝日新聞1953年(昭和28)8月15日

     2.佐久間乙葉『北区の部屋だより』2025年8月第192号

     3.写真『北区の部屋だより』より転載

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