志茂一丁目南町会の解散から再建まで

町会廃止と連絡事務所の設置

今回は今までと違い志茂地域という視点より、もう少し広い視点から町会組織の戦後の変遷を見てゆくことにします。

戦前の町会・隣組は昭和22年1月22日公布の「町内会、部落会などに関する解散及び就業禁止などに関する政令」により、同年3月31日限りで廃止され、解散後に結成された類似団体も同年5月31日までに解散することを命ぜられました。町会の廃止問題は地域住民にとって二つの側面を持っていました。すなわち、

  1. それに代わる自治的な地域住民組織の側面
  2. それまで町会が行ってきた配給や証明書発行などの行政末端事務処理をどうするかという側面

1に関しては町会廃止後も町会類似団体(赤十字奉仕団、防犯協会など)が残っていました。大阪市の場合、地域組織の空白を埋めるため社会連帯思想に基づく赤十字奉仕団の名のもとに(解体した町内会の範囲に基づき)再組織されました。これらの組織が土台となり、サンフランシスコ講和条約後町内会などの解散の政令は失効し、急速に町会は復活していきました。

2の行政末端事務処理の件に関しては、戦時中から食料などの生活必需品に大半は統制の対象で、戦後更に事情は悪化したため、生活必需品は配給に頼らざるを得ず、又何をするにも証明書や切符が不可欠でした。町会が廃止されどこがそれを代行したのでしょうか。

昭和22年3月4日の内務次官通牒「町内会・部落会等の措置について」で、町内会が行ってきた行政事務はすべて市町村長に移管し、同時に必要に応じ適当な区域に駐在員を配置し、出張所を設置できるとしました。

北区の場合:このような経過で、昭和22年6月1日をもって出張所が設置されました。しかし北区では既に4月1日の連絡事務所設置の段階で、従来の町会事務所を統合して13の連絡事務所に統合されていたため6月1日からはそれがそのまま13の出張所として発足しました。

志茂地区の出張所は現在の志茂2丁目30番地に置かれました。

この再建過程により、町会・自治会は「行政の末端」から「住民自治の担い手」へと性格を変えました。戦後の町会・自治会の再建は表向き解体の形を取りながら、実質的には継続という二重構造の中で進みました。

その流れは

  1. 戦後の解体と禁止措置(昭和22年[1947])
    GHQ(連合軍総司令部)は、町会・隣組を戦時体制の末端組織と見なし、ポッタム政令第15号により活動を禁止しました。
  2. 実質的な継続と変容(昭和22~27年[1947~1952])
    住民の生活は混乱しており、配給管理、防犯、防火、衛生など地域の助け合いが不可欠でした。そのため、町会の名称を避けて「防犯協会」、「赤十字奉仕団」、「広報委員会」などの代替の組織が誕生し、実質的に町会活動を継続しました。
  3. 再建と合理化(昭和27年[1952]以降)
    サンフランシスコ講和条約の発効によりポッタム政令は失効しました。
    町会・自治会は任意団体として再出発します。行政との協力関係を築きながら地域のインフラや防災活動を担うようになりました。

以上が全体的に見た町会・自治会の再建過程です。

志茂一丁目自治会の再建

それでは私たちの北区や志茂一丁目はどのように再建していったのでしょうか。

王子区でも昭和22年1月に町内会廃止にともなう行政事務や配給に関する善後策とともに、新たな自治組織として、いくつかの消費組合(生活協同組合)が設立許可を受けました。しかし、根づくことはなく活動はすぐに不振になり昭和23年には解散・活動休止の組合が出てきました。これに代わりやがて町内会が復活して地域社会を支えていくことになります。また東京都から地域社会の再編として区の整理統合案が示され、この方針に基づき王子区と滝野川区が統合し、昭和22年(1947)に北区が成立しました。

志茂一丁目南町会においても、終戦とともに、GHQのポッタム政令により町会・隣組は戦時体制の末端組織として解散を命じられました。終戦までは当町会は立派な町会事務所を今の14番地に所有していましたが、政令に基づき町会の財産は、その構成員の多数の決議により処分することになりました。これに基づき町会は解散し、事務所を処分する委員会を設置しました。事務所は入札により売却し、売却金は一部を赤羽中学校と第二岩淵小学校に寄付し、残額は寄付者に公平に分配返還し処分しました。

それ以降志茂一丁目自治会は自前の自治会館を持つことが出来ず、現在に至っています。

自治会組織の再結成の歴史は町会名簿に簡単ですが記載されておりますので、この記録に従って逐次記述して行くことにします。

昭和27(1952)年4月26日 太子堂(円照寺)において
  志茂一南親和会(仮称)第1回発起人会を開催。
  準備委員として下記の方々が結成に向かって努力された。
    大竹力、町田国一、小林繁蔵、埴原小次郎
    (日赤)大野安太郎、石川幸子
    (防犯)岩上小三郎、酒井文作
    (民主化促進文化会) 満田忠男、大畑金太
    (熊野講)望月栄四郎、岡部正作

昭和27年5月19日 太子堂において第2回発起人会開催
  準備委員長 大竹力
  仮称志茂一南自治会会員募集創立
  総会準備につき打合せ

昭和27年6月1日
  創立総会 赤羽中学講堂
  創立記念祝賀会 赤羽公民館

ポッタム政令失効の年、すぐさま自治会の再建に取り組めたのは、町の運営にかかわることができるいくつかの組織が志茂一丁目にも存在していたからなのです。

昭和32年9月15日 志茂町も新番地が施行され、それに伴い、昭和33年4月27日第7回定時総会で「志茂一丁目自治会」と名称が変更されました。

参考文献
1.北区史 現代行政編 、北区史編纂委員会編、1994年
2.北区史 都市問題編、北区史編纂調査会編 平成6年3月
3.志茂一丁目自治会会員名簿 昭和55年度版
4.インターネット特別展「公文書に見る戦時と戦後・・統治機構の変転・・」アジ歴グロッサリー

戻る