円照寺のこと

円照寺はかって太子堂と呼ばれていました。それは昭和20年から30年代の頃で、この時代、志茂一丁目の住民は、太子堂により多くの恩恵をうけました。

その一端をここに示します。

昭和20年4月13日の空襲で二岩小学校が全焼。6月18日残留児童を太子堂に収容し授業再開。

昭和27年4月26日 太子堂において志茂一南町会再建の第一回発起人会開催

昭和27年5月19日 太子堂において志茂一南町会再建の第二回発起人会開催

昭和35年8月5日  志茂一自治会館(仮称)建設協賛会発起人会を太子堂で開催

志茂一丁目自治会ではこの他成人式、ダンスパーティーなどに太子堂を使わせてもらいました。

志茂一丁目にある唯一の寺院、浄土真宗恵日山円照寺の略伝を記しておきます。

開基宗信法印(文永9年(1272)9月30日没)俗名小野沢日向守宗勝、木曽義仲の臣。承元3年(1210)親鸞聖人善光寺参詣の折、聖人の弟子となり宗信と号す。寺を起こし円照寺と号す。

先々代住職(第24代)釈得隆法師は明治19年長野県須坂市円照寺に生まれ、明治36年京都に勉学し、説教師を志す。大正6年東京に来て結婚し、浅草本願寺内に居住。昭和3年本山より安居(あんご)(一定の期間籠って修行する)受講を命ぜられ大谷大学の寮に入る。それより10年間布教も地方が多くなり愛知・秋田・青森へゆく。

昭和10年10月現北区志茂町に寺の建立を志す。昭和12年6月本堂入仏式。

昭和12年7月安居10年満講となり進業の位を得る。この間日本全国を布教し自坊に居らず。昭和18年戦争のため長野県に疎開。昭和21年1月妻(坊守)疎開先で死去。昭和21年3月東京に帰り著述・布教に専念。

昭和32年12月1日布教時の風邪がもとで円照寺自坊で往生、72歳。

円照寺は以前は「太子堂」と呼ばれていた。まえは寺ではなくお堂だった。円照寺の看板にも太子堂と書いてあった(昭和26年頃)。第25代住職(小野沢要七)になってから寺になったらしい。町に会館が無く、寺があって助かったという。「説教寺」とも呼ばれた。

参考文献 1.北区史 民俗編2 北区発行 平成6年3月

     2.岩淵第二小学校創立五十年記念誌

     3.志茂一丁目自治会会員名簿 昭和55年10月刊

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