ゴミ焼場設置反対期成同盟事務長 埴原小次郎
北清掃工場(ゴミ焼場)は、今日ももうもうと白煙を吹き出し、操業している。
吾々は今でもその建設をめぐって闘った十年間の歴史を忘れることは出来ない。それは公害から自らの生活環境を守るため、地域住民が、巨大な権力をもつ東京都と北区を相手取り闘ったひとつの歴史であるばかりか、都政と都民、区政と区民との関連を改めて考えさせる問題をもっていたからである。
住民の血と汗の反対にもかかわらず遂に清掃工場は建設された。だが、10年の長きに亘り闘われた住民の闘いの意義を吾々は知らねばならない。
その第1は、東京都をして清掃行政、公害問題を改めて認識させたこと。
第2は、当初の国産焼却炉を,西独フェルント式に変えさせたこと。
第3は、ゴミ焼場設置反対期成同盟に結集した北清掃工場周辺の都民を軸とする広範囲な住民代表と東京都は第一次協定書、第二次協定書等により厳しい内容の条項を遵守することを確認した。
第4は、運営協議会に住民代表の参加を認めさせ、具体的公害監視を明らかにさせたこと。
等である。したがって、志茂一自治会の歴史は北清掃工場反対の闘いを抜きにして語ることは出来ない。
以下、(昭和)36年残暑の9月から、43年酷暑の8月、和解の日までと45年5月第二次協定を結んだ日までの経過を小史としました。
昭和36年9月
東京都は北区議会の「北区振興促進特別委員会」に志茂一丁目国鉄火力発電所敷地を買収し、清掃工場を建設すると同意を求めてきた。吾々はこの東京都の計画に対し、地元11自治会(志茂、神谷、柳田)をもってゴミ焼場設置反対期成同盟を結成し闘いに立ち上がった。吾々の反対理由は主に次の点にあった。
- 建設用地は住宅店舗の密集地で、小中学校が近接し、環境衛生上、公害問題となる。
- 600トンのゴミ運搬トラックが出入りと残灰搬出トラック1,350台の車の出入りは交通災害を起す。
- 清掃工場の煙突から亜硫酸ガスなどの有害ガスが放出され、大気の汚染源となり光化学スモッグが発生し住民の生命と健康を破壊する。
- 従来建設されたゴミ焼却場の敷地10,000坪に比し、志茂一丁目3,200坪で狭小であり、文化、体育、公園、施設に使用すべきである。
昭和36年11月
区長及び区議会に対し、ゴミ焼却場設置反対と、文化施設誘致の請願書を提出。
昭和37年5月
志茂一自治会定期総会において、ゴミ焼場設置反対の闘いを更に強く進める年度方針を決定。
昭和37年9月
区長及び区議会に対し、次の請願書を提出した。
- 公聴会の開催
- 浮間の都有地5,000坪の再調査
36年9月より、37年9月までの請願陳情は10数回に及ぶ。都の説明はこの頃より当初の8時間稼働の200トン焼却から24時間稼働の1日600トン焼却操業に変更とバケの皮がはがれてきた。
昭和37年11月
抗議の陳情に暴力警官
北区議会会場で「北区振興促進特別委員会」はゴミ焼場設置反対期成同盟の反対陳情団1,000名を200名の暴力警官集団を動員し、問答無用で陳情者を排除し、事務局長埴原小次郎、小野田年宗を逮捕し、高橋委員長は1分余で賛成決議(違法)をした。不可解なことは昭和34年浮間大平製紙西側にゴミ焼却場建設の計画に反対した地元区議の多くが、今回は賛成したことである。
清掃局はウソとデマにより住民の団結を切り崩す目的で、地域の町会長、自治会長を個別に訪問し又は集会を開いて協力方の要請等あらゆる手段を尽くし、賛成住民の増大を図ったが、反対同盟は社,共、労組等の支援を得て人海戦術を展開した。特に反対署名は11万5,000名を得て、都議会、区議会、都理事者、区長等への請願、陳情も120回を数えたのである。

昭和38年4月
かかる闘いの中で埴原事務局長は区議会議員選挙に立候補し、トップ当選した。
昭和38年5月
(志茂一丁目自治会)定期総会でゴミ焼却場反対の方針を確認。児玉会長となる。
昭和38年6月
新区議会に陳情、(参加者500名)
昭和38年7月
都市計画審議会は、地元住民の了解を得ることを条件に設置賛成を決議。
昭和38年9月
ゴミ焼却場反対町民大会
昭和38年10月
ゴミ焼却場反対、廃品回収始まる(運動資金の為)。

昭和38年12月
小野田年宗氏が煙突に登り抗議表明。滞空83時間。東京都、工事の一時中止を言明。都に対する陳情・請願活発化。
昭和39年5月
ゴミ焼却場問題の話合いが、文化放送で放送。埴原事務局長と橋本清掃局長で。
昭和39年11月
ゴミ焼却場反対パレード及び街頭演説会。
11月26日、30日、12月1日赤羽会館で東京都清掃局が説明会開催。
昭和39年12月
東京都に陳情 180名、朝日、読売などが大きく取り上げる。
ゴミ焼却場設置反対募金実施。
昭和40年3月
北区議会に陳情。
昭和40年4月
定期総会、年度方針においてゴミ焼却場反対を決議、埴原会長就任。
昭和40年6月
都、現場工事の再開を強行。
昭和40年8月
ゴミ焼却場反対運動と日赤役員問題を理由に大野安太郎氏自治会を脱退し、別に町会結成。(自治会脱退者約90名)(ゴミ焼却場設置は、自治会内に対立を持込んだ。)
昭和40年12月
建設用地前にて、ハンストによる抗議活動を行う。
昭和41年6月
ゴミ焼却場設置反対期成同盟会長諸田彪太郎氏(神谷中町会長)29日過労のため逝去さる。
昭和41年7月
都議会の衛生経済清掃委員会は、敷地の拡張など3条件をつけて、建設を可決、志茂ゴミ焼却場反対の請願を否決。(社会党都連の裏切りとして新聞に大きく報道)
東京地裁にゴミ焼却事業及びその執行年度割取消の訴訟を起こす。
昭和41年11月
杉本裁判長現地を視察。
昭和43年8月
東京地裁杉本裁判長の勧告により和解成立。東京都と反対同盟は協定を結ぶ。
昭和43年8月
試験焼却開始。
昭和45年3月
現在に焼却トン数:300トン
昭和45年5月
第二次協定を結び焼却トン数は600トンと決定する。
出典 1.「志茂一丁目自治会会員名簿」平成2年1月発行、(理解しやすくするため文章の一部を書き加え、または省略した)。写真は別の資料より引用した。
2.「月刊 地域闘争 ‘71.9」、特集 くさいくさい市政がくさい 埴原小次郎